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現代のクラブ・ミュージックの主要なスタイルの一つのテクノは、70年代後半から80年代前半にかけて、アメリカの産業都市デトロイトにて産声を上げます。モータウン・サウンドを生み出したこの中西部の都市は黒人人口が多くの当時のラジオ局では白人音楽、黒人音楽というふうにプログラムが分けられ放送されていました。
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 その音楽の壁をやぶったのが、1977年から80年代中期までデトロイトのFM 局のDJをつとめたチャールズ・ジョンソンでした。“エレクトリファイ・モジョ”というラジオネームで知られた彼は、当時のラジオ局のルールを破り人種、国に関係なくさまざまな曲をかけたのでした。彼の選曲はファンクの開祖ジョージ・クリントンのP・ファンクや、ドイツのクラフト・ワークや日本のYMOといった前衛的コンピューターミュージックまで、ファンクとエレクトリックミュージックを分け隔てなくかけていたのでした。こうした彼のラジオが後にデトロイト・テクノを生み出すホアン・アトキンスをはじめとする若いリスナーにインスピレーションを与えていったのです。
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80年代初頭、日本の自動車業界のアメリカ進出のあおりを受け、デトロイトの自動車産業は崩壊し、失業、犯罪、絶望が渦巻いていくようになったのでした。そんな中、エレクトリファイング・モジョのFMラジオは若いリスナー達のまさに希望の光となり、デトロイト郊外のメルヴィル高校に通っていた、ホアン・アトキンス、デリック・メイ、ケヴィン・サンダーソンといった3人の少年達に大きな影響を与えていくようになるのです。
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Juan Atkins
ホアン・アトキンス
彼らの中で既に音楽活動を始めていた、アトキンスは家に遊びに来ていた弟の友人メイとサンダーソンにクラフト・ワークやYMOを始めとするコンピューター音楽の魅力やターンテーブルでのミックスを紹介していきます。彼はアルヴィン・トフラーがポスト産業社会について説いた本「第3の波」に感銘を受け、その中の言葉“テクノ”をキーワードに、皮肉にもデトロイトを衰退に導いたのと同じ国、日本で作られた電子楽器を持いて作曲活動を始め、独自の音楽のスタイルを確立していきます。また、そうした作品を発表する為に Metroplex、Transmat(後にメイに引き継がれる)といったレーベルを設立し、自身の音楽を世界に向けて発信していきます。
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Derrick May
デリック・メイ
アトキンスに音楽とDJの師事を受けたメイは同じ頃、対岸の都市シカゴでもり上がっていたハウス・パーティを経験し、ダンスミュージックに未来を見るのです。デトロイトでのアンダーグラウンド・パーティの主催とアトキンスから引き継いだTransmatレーベルの運営を行いながら、アトキンスのテクノのコンセプトにダンサブルなハウスの要素を組み合わせたレコードを次々と発表していきます。中でも1987年発表の「String Of Life」は当時、盛り上がりをみせてきたヨーロッパのレイブシーンでDJ達がクライマックスにこぞってプレイし、デトロイト・テクノと彼の名前を世界的に知しらしめる作品となっていくのです。
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Kevin Saunderson
ケヴィン・サンダーソン
また、学生フットボール選手だったケヴィン・サンダーソンは、大学2年次に音楽の道へ転向し、KMS Recordsを立ち上げ、数々の作品を世に送り出していきます。知性溢れる彼の作品は世界中のクラブでヒットし、中でもシカゴのヴォーカリスト、パリス・グレイとのユニット「インナー・シティ」は欧米のヒットチャートにも上るほどの成功をおさめていきます。
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1987年にこうした流れを受け、イギリスでは大手のヴァージンによって、こうしたデトロイトのテクノ・シーンを1つのアルバムに集約した「Techno:The Dance Sound of Detroit」を発売します。デリック・メイによって選曲されたこのアルバムはアトキンスの“テクノ・ミュージック”をはじめ、デトロイト・テクノ第一世代のアーティストの作品が集められ、デトロイトの新しい音楽シーンをヨーロッパ各地に伝えていくこととなります。こうしてアメリカ本国ではほぼ無名の彼らが、ヨーロッパや日本でで多くの若者の支持を受け、90年代に入るとドイツのポール・ヴァン・ダイクや日本のケン・イシイといったアーティストに影響を与えていきます。 |
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当地デトロイトでも、ウィザードというDJ名でDJミックスに革命を起こし、後にミニマルテクノの開祖となったジェフ・ミルズを始め、その音楽は様々な融合をはかりつつ発展しつづけています。中でもセオ・パリッシュはソウルフルなローテンポ・ハウスの曲からクラシック/レア・グルーヴのミックスをおこない、独自の音楽スタイルを築き上げ、デリック・メイの愛弟子ステイシー・プレンはアフリカンテイスト溢れる、パーカッシヴな作曲及びジャンルレスなDJスタイルで独自の地位を確率しています。
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こうした音楽の発展の中、2000年にはデトロイト第2世代を代表するカール・クレイグによりデトロイト市の活性化をはかるフリーパーティが主催されます。2001年度に主催者側の内輪沙汰でいざこざがあるも、2003年にはデリック・メイが実行委員長を引き受け、クレイグが目指したアーティスト主体のフェスティバルを取り戻し、<Movement>と名を改められられ3日間ののべ参加者数は100万人を動員するほどに発展します。これは入場無料としては世界最大規で“ドラッグなしのウッドストック”と評価されるほどになっています。

こうしてモータウンというソウル、ファンクの土壌が育った街、デトロイトで1人のラジオDJが発信した世界の音楽は、ホアン・アトキンスに音楽の未来を予見させ、そして彼のスピリットはシカゴ・ハウスにダンスミュージックの未来を見たデリック・メイによって、新しい音楽となって有機的に結びついていきます。こうして生まれたテクノは世界の様々な土地へ伝播していき、多くの音楽カルチャーと融合し発展しいきます。
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